写真と言葉展 詩のように撮り、写真のように紡ぐ

Shoot like a poem, Compose like a photograph

笠原小百合・内野義悠 黒阿 kensyo 鈴木真吾 蓼原 憂 艶子 藤和 hiroco+ar=ma 松尾友雪 Yusuke Kawabata 連使

会期2024年3月10日(日) - 3月23日(土)
休業日12(火)・13(水)、18(月)・19(火)
時間12:00 - 19:00
主催・会場Gallery 幻 >>Map
通販3月16日(土) 20:00 - 会期末>>Online Shop
SNS用タグ#詩のように撮り写真のように紡ぐ

写真と言葉の相互作用

写真、言葉、およびその双方を組み合わせた作品に注目した企画を開催いたします。対比的な二つのジャンルを同時に鑑賞し、より深い理解や相互作用を体感します。写真集、詩集、シート作品なども販売いたします。

 

Statement

詩は写真のごとく

「芸術に言葉はいらない」とは本当だろうか。そこにおいて言葉が何かを説明する道具としか考えられていないことに私は驚く。言葉そのものにも芸術は潜むということが、つまりは詩の存在が、そこには想定されていない。

「詩は絵のように(ut pictura poesis)」と古代ローマの詩人ホラティウスは『詩論』に記した。この言葉は後に「詩は絵のように、絵は詩のように」と拡大解釈され、絵画論にも賛否両面から大きな影響を与えた。

ホラティウスの時代に写真は無い。しかし、現代では picture といえばまず何よりも写真だろう。写真の瞬間性・現実性は絵画以上に詩文と対比し得る。ゆえに、写真家は言葉を避け、文筆家は視覚を避けることがある。カフカが『変身』を出版する際、表紙絵に「虫そのものを描いてはいけない」と求めたように。

しかし、対比的であればこそ、写真は言葉に、言葉は写真に、強く恋い焦がれもする。私の知る詩人の多くは優秀なイメージの狩人であり、写真家の幾人かは真摯な言葉の探求者でもあった。詩人であり、写真家でもある寺山修司はかつて言った。写真では「光陰が流れ、物語が残る」と。ならば、詩文においては「物語が流れ、光陰が残る」とも言えようか。

ホラティウスの時代から時は過ぎ、私たちは入力した文字列から画像が自動生成される時代を今に生きている。そのような時代に、写真と言葉との解剖台の上での偶然の邂逅は思いがけぬ美しさを生み出すだろう。

文・小林義和(Gallery 幻 代表)

 

Online Shop

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販売期間:3月16日(土) 20:00 - 3.23(土) 19:00

 

Artists

 

ar=ma

内野義悠

笠原小百合

黒阿

kensyo

鈴木真吾

蓼原 憂

艶子

藤和

hiroco

松尾友雪

Yusuke Kawabata

連使